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人間を取り戻そう
日時 | 2015年9月21日(日)
場所 | 船橋昭和浄苑
講師 | 宮戸道雄
 何を習うのかというたら「自分とは一体何や」。ということを習うのでしょう。本当の自分とは何なのか。これが習うということでしょうね。大体私もそうでございますけど嘘が好きですね。嘘言うてもろうて喜ぶんですよ。うちの近所の人がですね、嘘に決まってるんですけど嬉しいんですね。「身長が伸びてしゃんとしていいね。元気だね」と言いますとね、嘘に決まってる。嘘言うてもらうて喜ぶ。本当のこと言うてもらうと腹が立つ。お寺というのは本当のことを聞かせてもらう。私はここは娑婆というますけどね。娑婆というとを別の言葉で申しますとね、この娑婆というところは辛抱し耐えていかなければならないところ。これを忍土と。インドの龍樹菩薩が「本当のことを隠す」とこういう表現で出ています。これはインドの龍樹という人が「本当のことを隠す」「本当のこと聞かねばならない」こういうことが人間の世界。それで私は安田理深という先生が教えてくれた思うんですけれども。安田理深先生が仏教というのは「人間奪還の運動である」。こう言われてます。「奪還」というのは「奪いかえす」。これを仏教という。これは素晴らしいことですよ。奪い返すんですよ。阿倍総理大臣が取り戻そうと言うとるんですよ。取り戻そうと言うのは失っているのを取り戻そうと言うとる。我々は人間を失のうとる。こういうことが私が今日申し上げたいことであります。人間は人間の顔しておりますけれどもね。人間がしゃべっていることで一生かけてしゃべっていることは4つのことしかしゃべってない。それは有名な。なんやいうたら「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」この4つのことしか言わんです。「そんでも、そやけど」とは弁解と言うことです。「あいつが、こいつが」と言うのはやっつける。弁解と根元です。これだけしか人間はしゃべってないでないか。と言われておりますが、「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」そのことをですね真宗の教えというものを現代の言葉で引用してくれた人がおる。「些細なこと」青山学院の教授の人ですけどね。清水まさこという先生ですね。この方がですね、こう言うてます。「些細なことに驚く力を取り戻すと一見退屈な日常が輝いてくる」そういう表現で真宗の教えを現代語に訳して下さった。もう一回言いましょう。「些細なことに驚く力を取り戻すと一見退屈な日常が輝いておる」それをですね親鸞聖人は信ずれば助かると教えを説かれると。信ずれば助かるということをですね些細なことに驚く力を取り戻す。それが信ずるということ。信ずるということは思い込むということではありませんよ。「わしはあいつ信じとったはいいけど」あなたの奥さんにも言われないですか。「あなたを信じてますから」信ずるというてますけど信ずる言うたらお互いの裏返しですよ。もう信ずれば助かるということはなかなか。青山学院大学の清水真砂子という教授が「些細なことに驚く力を取り戻すと一見退屈な日常が輝いてくる」些細なこと言うたらどういうことか?色々問題ですね、そうたいした問題じゃないということです。「ああ、そうか」と言う。聞き流していける問題。些細なこと私こういう風に思いますね。たとえばですね、ほなちょっと病院に入院しててですね、病院で色々と検査を受けてですね、その時にね頭の先から足の先まで綿密に検査をしてくれますから助かるかも知れませんけどね。検査して耳にした結果が消火器。消火器とはどういうことを消火器というですかというと、消火器とは健康だというんですね。消火器というのは口から食べたものが胃袋に行って3時間以内に大体泥泥になって原型がわからんほどの溶けてしまって腸へ行く。これが健康な胃腸。3時間以内に残らんように消えてしまう。聞いて驚きましたよ、私は。私はね3時間くらいでは消えんのです。私は30年くらいのものがありますよ。いつままでもおるんですよ。何か。私ちょっと東本願寺におりました。私その仕事をしておりまして、私の下に若いお寺さんが勤めに来ておりまして、それが30過ぎとる。そろそろ結婚せんならん。なんべんもなんべんもそのお寺の息子ですから足を運んでお世話をしておりました。その私のお世話によって結婚できたその勤めているところへ出かけまして、そこで会がありまして、そこの大学の教授とそこの部長と3人で1時間もしゃべっておりまして、そしたらその結婚世話してやった人がですね、お抹茶を2つ持って、3人でしゃべってるのを抹茶茶碗が2つ。これはお客さんが私とそこの大学の先生と部長はお客さんでありまして「2つでいいんですよ」と、2つでいいんですけどね、私はいい格好してね、その部長さんに「部長さん先にどうぞ」「ああそうですか失礼します」1時間ほど話があり「さあ帰ろうか」と。腹が立って「あいつ、わしをなんやと思う」3年も苦労して高い頭下げて世話してやったのにやな。「お茶一杯出さんとは何事や」お茶を一杯もらえなかったそれだけのことで、今までやってきた3年分の腹が立つのよ。10年やっとったらまだ腹が立つやろね。食べたものは3時間以内に消えていく。わしはね20年も前にあったことまだ残ってますよ。そしてどういう風に残っているかというと、いつまででも理由を言わしたいんです。忘れればええのに。それまで苦労してやったことが、そっくりそのまま私を腹立つ苦しめるものに変わってしまうんです。
 小学校の用務員として残ってる方がいて、よく聴聞する方で。その時に4月に先生の人事異動があって初めて教育大学を卒業した新人の先生が赴任して頂いたんですね。そして学校のすぐそばに下宿なさって、それでおばちゃんが私の息子一人増えたようなつもりで迎えてやった。お風呂を入れてやったり「洗濯物があったら出せ」と言ってあげたり本当に母親のように世話をしとったんですよ。これが用務員の仕事です。私が一生懸命働くことによって、先生方に気持ちいい心で教室に行ってもらえるように、そういう雰囲気をつくるんですね。なかなかたいしたものですよ。したらあの時にですね。その教員、先生がみんなお休みの時お茶を汲んでいたという。そしたらね一番最後にお茶を汲んだ時の女の先生が「おばちゃん、みかんをもろうて来た」と言われたんですね。気がついてみたら先生の机に全部5つも6つも全部みかんが置いてあったらしいんですね。その女の先生が「みかんもろうた?」「いやいや何ももろうとらんです」「そう。かわいそうに」「あんた忘れられとるんだろ、私の半分あげるわ」このみかんはどういうみかんなのか。どこから来たのか。「どうしたの?このみかんは?」「おばちゃん、あんた知らなかったの?運送屋さんが来て大きな箱もって来たでしょ」先生が教員さんや職員方にを分けて下さった。それを聞いた途端にその用務員のおばちゃん腹が煮えくるように腹が立ってきた。私が一生懸命世話してご飯も食べさせて、一生懸命世話してもろうておるその先生の家から送ってきたみかんやと聞いただけでも「なんで私にも「おばちゃん。家から送ってきたみかんだから食べてくれ」となんで言うてくれなんだろう?」と「先生方にはやっといて、世話してる私のことを忘れていた。もう知らん。私がつくったのが気に加ないのやわ。もう知らん」用務員の部屋に走って帰ってった。本当に腹立っておる。良いことはするんですよ。良いことをするんですけどね「私がした」ということがついとるんですよ。そしていつまででも「私がしてやった」お礼を言わしたい。それを親鸞聖人は「罪」という。「罪」というのは人を殺す、物を盗む、そういうことだけを言うてるのではない。いいことをしてても「わしがしてやった」というその「私が」というものがね放せませんと全部汚れてしまうんですよ。その証拠に礼を言わなかったら腹が立つ。あいつが悪いから腹が立たせられとるじゃない。礼を言うてもらいたい。そういう根性が私にあるんやないかな。いつまででもやったことに紐をつけて引っ張とる。『大無量寿経』というものがね「上」と「下」と別れておるけど43頁(当日の配布テキストの)を開きますとですねこう書いてます。「症状にして残ります」と。私達はね、いいことをするんですよ、でも「私がしてやった」そういうものがいつまででもついとるんです。ちょっとしたこと一生紐を引っ張って相手に礼を言わしてたい。こう言うてます。『浄土論』という真宗の教えの大事なところです。『浄土論』というのは天親菩薩という方がおつくりになった書です。聖典では137頁です。お浄土というところへ行きますとね「雨功徳」ということが書いてますということは雨というものは降っても降っても降った分から染み込んでですね流れ去っていく。どんだけ降っても残らない。お浄土というものを「雨」という表現でしておる大事な意味ですよ。このへんわかりますでしょうか。そういう自分ということになるではないですよ。
 毎日貴方方お互いに人間ですから苦しいこと悲しいことあるでしょう。苦しいこと悲しいことあるけどもそれが娑婆ですけど。悲しいことを縁にしてお念仏に帰っていくだけのことです。色々な本音もあるけれどもそれをお念仏に帰って下さい。お念仏に帰るとはどういうことなのか。色々な事件に遭ってさっきの話でみかん一つもらえなかったという出来事によってですね、お念仏に帰るとはどういうことか。お念仏に帰るとういことは南無阿弥陀仏。南無です。南無と言うことはみかん一つもらえなかったということだけで今まで先生のために奉仕してきたことが全部偽物だった。先生のため教育のためと一生懸命奉仕して自分がやってきたと思うけどもこれは良く考えてみたら偽物なんだ。こんな話ではあきまへん?「あんたのやってきたこと素晴らしいね。」「あんたのやったことたいしたものだね」とこう言って欲しいですね。こう言うて下さると「ああ良かった」となる。そして私みたいにね頭からやってることは全部汚れておるんだ。人間がやったことがやっとことによって汚れておるんだ。本当は偽物なんだ。「何この野郎、もう寺なんて行くか!」「思いなさいよ、ちょっとぐらい」「お寺というのはそういうこと言うの?」そういうことを言うんです。それによって少々腹が立つでしょうけど静かに考えてみたら見返しを求めてるんだな。そういう私に純粋さに目覚めていくんですね。それが念仏に帰えて生きていくということでありますよ。よくお子さんに「愚痴を言うな」と言うたらあきまへんよ。愚痴は出るんです。愚痴は出たことによってお念仏に帰っていく。南無。「人のためにしてやった」と思うけど「人のために尽くした」と思うてるけど、よくよく聞いてみると「「礼を言わそう」と思うてるのは自分だったんだな。「偽物やったな。」と言うことが南無。阿弥陀というのは仏さんがどこかいらしたということではなく、「阿弥陀」というのははたらき。「私にそういうことして下さったんだな」」と言うはたらき。はたらきでしょう。鯉のぼりというのもわかりませんよ。風というものがはたらいているから上に上がるんでしょ。風というのは見えんでしょ。はたらきですから。お念仏のはたらきによって、私腹立っていたけどそうやない。そのはたらきによって「偽物やったな」とこう言う気がつくということを自分に帰るという。帰るところをもってるというのは強いのですよ。皆さん帰るところありますか?自分に帰るのですよ。
 私の知っている先生でおじいさんが(年齢)60から70くらい。お婆さん、嫁さん45,6歳。そのおじいさんは目がほとんど見えないくらい、それでまあお嫁さんのお婆さんはあだ名が五徳と言うあだ名なんですよ。なんでかというと手と足が特別大きいです。ですからその奥さんがいつでも手を隠したり足を隠したりしてるんですね。恥ずかしい。そういう夫婦なんです。自ら蔵へ入って話かなんかしとったら整理かなんかした。そうするとそのお爺さんがね、なにかにつまずいてバターンと前へ躓いてしまった。それでその時にね、奥さんが「大丈夫?」とすぐ抱き上げたら良かったんですけどね、「なんで下を見るの!?」そしたらご主人がね「わしは五徳と違うでね」 「なんでよう下見るの!?」とご主人が目が悪い欠点をズバーとつい、助ける以外にまず口で「なんで下ばかり見るの?」。言われた方も「わしは五徳と違うでな」。奥さんが一番嫌がってる手が大きい「わしは五徳と違うでな」とお互いに夫婦同士で相手の欠点ばかり言い続けよる。そしてそのご主人がね何故「よう下を見るの?」「わしは五徳と違うでな」と主人が言った後でしばらくしたら主人が「ああお互い様だったね」なんでやろ「わしはお前の欠点を言うた、言われたお前はワシの欠点ズバーと言うた」お互い欠点同士を言い合ってそしてケンカせんでもええことをケンカしとったな。「おあいっこやったね」と「おあいっこ」。「おあいっこやったね」と言うのがそのご主人の「南無阿弥陀仏」。「南無」。「よう下を見るの!?」「わしは五徳と違うでな」わしも奥さんからきついこと言われて、ワシも奥さんからきついこと言われた、「情けないなあ、情けなかったね」気がついて「おあいっこやったな」どうですかね。
「南無阿弥陀仏」と先ほど皆さん住職を先頭にして「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」どういうつもりで「南無阿弥陀仏」と言うてますか。そのへんもよくよく考えてみたら「南無」。「南無阿弥陀仏」。「南無」と言うのは頭が下がる。自分に気がつくということですよ。阿弥陀というのはなにかのおかげ。あるご夫婦がね。奥さんに出遇うと、まあ口から飛び出すくらい愚痴ばかり言う。「こんな家につがなければ」「ご縁さん、お父さんが世話して下さったからこんなところへお嫁に来た」「優しいええ男や言われたけど、こんな酒飲みで気が短いこんな男とは思わなかった」ご主人の悪口を言う。又ご主人に会うと「ごえんさん、私はお父さんのお世話で嫁もらったけど、あんな優しい大人しい子おらんと嫁もらいましたけどあんな横着や思わなかった」お互いに相手を突きおうておった。主人がこう言うてた。なにかごちゃごちゃ言い争った時にね、「色々あったけどね、こんなわしみたいな男のところへよく来てくれたね」皆さんも言うてごらん。これがご主人の「南無阿弥陀仏」。「わしみたいなところへよく来てくれはりました、ご苦労様でした」それを聞いた奥さんがですね。「いいえ、こんな女、お父さん、あんたが引っ張って下さったからやないですか」ちゃんと「南無阿弥陀仏」。一遍やってごらん。なかなかやれんね。「わしみたいな、こんな男のところへよく来てくれたね。それを言われると奥さんがパンと反応して「私のような女をお父さんがよく引っ張ってくれたからですわ」いいね。そうなるといいけど。今日はそれがお土産、持ち帰ってください。それを深めて「南無阿弥陀仏」。自分の生活のなかで「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」を身に体現する。身に体現するんですよ。やっごらん。念仏称える時はですよ自分の言葉でナンマンダブツと言うて下さい。「南無阿弥陀仏」と自分の言葉で「南無阿弥陀仏」を表現する。自分の言葉で言うたら相手に通じます。自分の言葉で本当に「南無阿弥陀仏」のいわれに適うておったら相手が怒ったら腹が収まります。こっちも収まります。「南無阿弥陀仏」又ご縁があったら自分の言葉で「南無阿弥陀仏」と聞かせて下さい。この宿題を皆さんに渡しておきますからね。そして「南無阿弥陀仏」を自分の言葉で言うたらお念仏が生活のなかに生きてくるんですよ。時計と競争してやってみて下さい。もう以上話が長くなると話が尽きないかもしれません。辞めてよろしいか。宿題をもう一遍出します。「南無阿弥陀仏」を自分の生活の出来事を通して「南無阿弥陀仏」と言う。そして「南無」と言うたら「わしのおかげでメシ食わしてもらってる」と言っとらずに「こんな男によう嫁に来てくれてありがとう」と言うて見る。言えんで。それで「難中之難無過斯」。これが言えたら本当に世の中逆転してます。こういう世間をお浄土に生まれさせるのですよ。證大寺の皆さんこの話はちょっと難しかったかな。わかるでしょ。ありがとうございました。
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