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人間を取り戻そう
日時 | 2015年9月20日(土)
場所 | 森林公園昭和浄苑
講師 | 宮戸道雄
皆さんお待たせしました。私はご覧の通りの年寄りでございますから。どういうお話をするかと色々考えて見るわけでございますけれども、なにも出てきませんでした。皆さん顔見てからしようと思っております。それで阿倍総理大臣がですね「日本を取り戻す」と言うスローガンを折角かかげて頑張ってはりましたね。「日本」を言うけれども、どういう日本を取り戻そうとしておられるのか。その辺には一切触れませんね。経済問題ばかりやってますね。「日本を取り戻そう」と言うのですから。「取り戻そう」と言うのはなにか失ったということですから。なにか失ったということだから取り戻そうと言うのですね。阿倍さんなにを失ったと思ってるんですかね。皆さん阿倍さんのスローガンからそういうこと思いませんか。なにを失ったんでしょう。私は時間ありませんから簡単に言いますけど、私は失ったものは毎朝人間や思うています。人間であることを失っておる。そんなご無礼は話と思うかも知れませんがね。どうですかね。この頃「あいつ人間かな」と思うのもありますね。こないだテレビでね、火葬場の話が出てました。火葬場の職員がね、グチッと愚痴を言うとるのですね。なにを言うとるんかいったらね、火葬をしまして、「どこか白骨を取りに来てくれ」と。「忙しいから行けんから、そっちの方で頼む」と。「「そっちの方で頼むって」ってあんたが来なあかんやろ。なにを言うとんですか」と。「いや行けんもんやから、そっちの方で頼む」と。腹立ってね。お骨、バケツにバンと投げ込んでね、そうしないと次の火葬が出来んのやから、遺体捨てといたら罪になりますけど、お骨詰め込んでも罪になりませんですよ、これ。そんなこと言うてましたけどね。そんなこともあるんですね。そんなことに驚いてましたらですね、大阪の方でね、103歳になるお爺さんがね、103歳になるお爺さんが押入れ、箪笥の引き出しから出てこられたという。ミイラになったという。ミイラになったと、そんな臭いところに住んどったなあ。調べてみたら85歳になって死んどったのを、死んだことを隠しといて年金だけ取っといた。これも又えらいものがおるな、どこまでおるんや、この日本人に。そんなことまでなくてもですね、寧ろ寺に来るお婆さんの話もありますね。息子の嫁さんは市役所に勤めてる。息子は早いとこ会社に行きよる。嫁は朝ごはん、お婆さんと一緒に食べて、食べ終えたらバッと箸をおいてすぐ、お婆さんの後ろを通ってすぐスーと通って「行ってきます」とも言わんとブッと行きよるんですね。そして3年も経つと腹立たん、当たり前になっちゃたんですけどね。玄関にね犬がおってね、その犬に「行ってくるよ」犬にだけ挨拶する。「行ってくるよ」と言うのは「わしに言わなあかん」と思うておる。犬にだけ言うて本当に。憤慨に絶えん、おばあさんがおりました。ひどいな。人間はほんま、おらんなったな。人間がおらんなったいうのは、年寄りの方がね、若いもんを年寄りの方が。なんでや言うたら「わしが建てた家や。わしが建てた家やからわしが住むんや。若いもんに気遣わなくて済む。お爺さんとお婆さんで気楽な方で良いな」こう言うてます。「わしが建てた家や。気楽が良い」お爺が言うとらへんわ、お婆が言うてる。「気楽がええ」と言うのは、そりゃ気楽がええかも知れんけど、気楽いうとりゃ、どういうことになるのや。気楽ということは自分の色んな問題を問わなくてもいい。「わしはわしや。わしの根性を誰も批判する者はおらんのや。したい方なことしとったらええやん」気楽ということでしょ。気楽です。これでええ言うたら、そうしとったらええんです。けどね、それではね「気楽がええ、気楽が良い」と言うことを裏から言うたら、「お前それで人間が育っていないでないか。心が育たんでないか」一人なったらね、そんな色んな問題はございませんよ。けどね、若いもんと暮らしてますとですね、いっぱい出てきます。けどね、そのことによってね、私が育てられるんでしょ。こんな明大なこと、今最も人間でね、失ってるというのはどういうことか言うたらね、「自分の方を問題にして育てて行く」と言うね。あいつのことばっか言うとんでしょ。今も言うとったんですけど、人間がですね、一生の間しゃべる言葉は4つしかない。これは高光大船という有名な先生のお言葉ですわ。人間が言うことは4つしかない。「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」一生かかってそれだけしか言わん。「そんでも、そやけど」弁解す。「あいつが、こいつが」人生70,80年の人生。「そんでも、そやけど、あいつが、こいつが」これだけで一生終わって行くのは空しいではございませんか。こないだこんな話が出てましたね。5000年昔の洞窟が発見されたんですって。その洞窟を発見されたんですけど、その洞窟に昔人間が住んでおったという形跡があったというんですね。その人間が住んどった形跡がなにかと言うたら、洞窟の壁にね、字みたいな書いてあったいうんですね。5000年前のものやから、なにが書いてあるかわからんまんま。でも人が住んどったという証拠になるから、ある学者がですね絵か字かわからんものを研究して、そして解読したというんですよ。これ怪しいね、これね。怪しいだけれども解読したと。解読した言葉はどういう言葉になったかというと「この頃の若い者はどうしようもない」と書いてあったという。5000年前のこと、そういうことはですね、同じこと皆さんも言うとらへんですか。「この頃の若いもんはどうしようもない」辞めときましょ、こんな話は。面白いですね。自分というもの問題にせえへん。話がころっと変わりますけれどもね。私は滋賀に住んでますけれども、ちょっと山手の方のお墓の方へ、こんな立派なお墓(※森林公園・昭和浄苑のお墓)ではありませんけども、そのついでに、もう一つ山奥ですけれども部落へ行ったんです。そこの部落がもう全部若い人が出てってしまって、お世話になっとるんですけどね、「どうしてるやろ」思うて、「どうしてはるんやろ」見に行ったんです。綺麗に田んぼがうつってる。美田。スーと田んぼが。その田んぼの真ん中にね、もうジャングルがスズキであれ変な木が生えとるんですね。「去年、一昨年までは田んぼやったのに、どうしたん」言うたら、あそこの持ってる人がね、年取ってしまって手が入らん、そのまま放ってしまった。たった1年間でその自分の田んぼに釜や土を入れなかっただけで、その田んぼがジャングルみたいになった。皆さん田んぼの話してるんじゃないですよ。ここに座ってる人の話をしてるんですよ。私達は生まれてこの方どうでしょう、自分の心に肥やしを入れたことあるかね。人のことはよう言えますよ。自分自身の心に鍬を入れたり鋤を入れたりして、掘り返したことあるんですか。田んぼを鋤ですくうといったらどういうこというたら土を裏返すということですから。土の表面だけ見てるんじゃない。ひっくり返すということは裏が見えるということです。人間の心に鋤を入れるということは私の心のそこが見えるということよ。鋤を入れたことありますか。なかなか入りませんね。あんまりしゃべっとったら時間がない。もっと面白い話しなきゃあかんな。どうですかね。あの60歳くらいのご夫婦が、遠い親戚から若夫婦、結婚し立ての若夫婦を後継いでもらうという約束で若い夫婦をもろうたんですわ。今まで爺と婆2人だけやった若いもんが来たもんだからね。華やかになったんです。そしてその爺が「ご縁さん、もうこれで後継ぎが出来ましたし、もう言うことありません」これどこ行っても言うとるん。「わしは早過ぎはせんか」「言うことない」と言うなら「責めて見つけた」と言え。期待するわけじゃないから。3月も経ったらこう言いますから。別居するようになった。すぐ傍に年寄りのこじんまりした家を建ててですね、別に住むようになった。一緒に住めんのよ。1人では寂しいと言うし、一緒にいるとうるさくなるし、どうせえ言うんですか。一緒に住めるんですが、取り合えず別居した。これをね、どうにかしないと、「どうにかしないと幸せでないものは、どうなっても幸せでないもんや」こういう言葉があるんですよ。もう一遍言いますよ皆さん。「どうにかしないと幸せでないものは、どうなっても幸せでないもんや」ややこしい。だから我々は幸せになろうと、どうにかしてるがな。あれもしてみたい、これもしてみたい。そのおっさん、後継ぎと称して若いもんもろうて見たけど上手いこと行かんのやから別棟を建てて別居したんや。どうにかした。どうにかしたんやから、これで上手いこと行くかと思うたら行かんのやね。なんでや。婆が覗き見しい言う(※覗き見を促すこと)。覗き見言うたらわかる?こうやって覗く。自分の嫁住んでるとこをですね、どうとかこうとか、こう言うんですわ。「今日はこういう匂いがした、なに食うとんのや」とか「今日はどこからか昼ごはん来とったけれども、どこから来たんや」とか「今日は車がないから、どこ行きよった」とか、そんなことどうでもいいがな。それをぐだぐだ言うて近所歩くんだから、だからね、どうにかしたんですけど、どうにかこうも別居したんだけどどうにもならない。「人間関係難しいもんや」それで大体終わっとんねん。大体。娑婆は大体それで終わってるでしょ。娑婆やねんでな。皆さんね、今日はこんな本をちょっとわしが出したのと違って私の話が出版されてこれを見たんですよ。わしがこの年で言うとるんですよ。ほんま、わし言うやろう?娑婆のことをですね、我々は娑婆のことをどう言うかいうとですね、年取ったら忘れてまうねこれ。「忍土」と言う。「忍土」と言うのはね、「堪忍」する「忍」やろ。「忍耐」の「忍」。「忍土」と言う。それをね龍樹菩薩という「易行品」を見てきますというとですね、「娑婆」と言うのはね、「娑婆」のことをですよ、これは龍樹の「易行品」というもののなかに「娑婆」のことをですね我々は「忍土」。と思うておりますけれども、「易行品」龍樹菩薩はですね「覆真」ということはですね、本当のことを隠してる。言われてみるとそうです。本当のこと言ようかな。「婆さん、ひどいもんになったな」思うたけどね。わしもね嘘言われると嬉しいんですね。「あんた、年の割には若いね」と言われるとね、これが好きなの。甘いもんだな。ちょっと誉めてもらうと安心するし好きやし、ほんまのこと言われると腹が立つ。だから本当のことは言えん。娑婆で本当のことばかり言うとったら、娑婆は通用しないじゃないですか。嘘を言うとて。毎日そればかりやってますね。話横行きましたけどね。60歳で跡取りもろうた。嫁とも上手く行かへんもんやから、別居した。これでええかと思ったけど今度は覗き見するようになった。別居するより、まずくなった。そこで聞いて欲しいことは、そこでこの親父さんはね「どうにかしないと幸せでないものは、どうなっても幸せでない」あのややこしい言葉を説教で使わせてもろうたけど「そうや我こそわしの姿やった」「どうにかならんと幸せでないものは、どうなっても幸せでないもんだ。そうや、あれはわしの姿やった」この一点。「私のことやった」それはわかってみたらですね、そのお爺さん、話を聞き出した。お寺へ行っても話を聞くようになったというんです。なかなか話は聞けませんよ、話は。今日の話は面白かったかな、今日の話は難しかったかな。話は聞いてんですが、自分を聞いとらへんです。自分を放ったらかしにして良かった言うてるだけや。このお爺さん本当に聞き出した。そしてわかったこと一つ。なにがわかったか。「若い奴は!若い奴は!言うとったけど、言うとる私はどうやった」と。「私は若いもんに対してどう思っとったか」「この家は、この財産は、わしが苦労して働いて気づきあげて来た。私の働いて貯めていた財産がね。それを若いもんが手を出さずに皆もらいよった。わしのもん取りよるでないか。こんな心で若いもんに接しとったんで、若いもんにしゃべってくれん。のは当たり前や」とうことがわかった言うんだから、これはえらいことですよ。皆さん仏法ということで難しいのは「わしのことやった」自分の姿が見えてきたですわ。考えて見て下さいね。皆さんのことでしょ。私もそうなんです。今8人で生活してるんですよ。7人で息子がちょっと外行ってますのや。孫4人と、お爺とお婆と、嫁さんと7人暮らし。7人が一緒に暮らしてますとね、グタグタ言うんですよ。色々と。わしらグタグタ言うていつでも嫁さん泣きこぼしてます。しかしね、こういう生活の中からね、5,000年前の洞窟に「この頃の若いもんは、どうもならん」5000年前も、ちっとも変ってらんのはわしやねん。一歩も進歩しとらんの。こういうことをゴタゴタ家庭のなかですることによってね、自分というものに気がつかせてもらっている。ねえ皆さん、そんな難しいことでない、自分を聞かせてもらう。私の話難しくてわからん人も、いらっしゃるかもしれませんけどね、自分というものがわかるということですよ。私ここで結論申しましたけどね、仏様のことをね、「海」という風に見てるんですよ。仏様を「海」のような性を持ってる。あのね仏様のご浄土、仏様をね、「海」という言葉は随分使ってます。「本願海」。一遍『正信偈』のなかを見たら「海」というものなにに使ってるか。「海」というものは、どういうふうに使っておるかいうたら、「海」というのは『教行信証』に「海」というものは、どんだけ沢山川から水が流れ込んできても、海の中に入るというと、みんな美しい水に入る。それを「海」のはたらき、こういうはたらき。転ぜられてく。この「海」というものに対して、人間はどういう性、性格を持っているかというと「不浄性」。人間はどんな汚いものが来ても美しい水に入る。人間はどんなに美しいものを持って来たって汚いものを吸う。これは人間の性という。と書いてます。どうですかね。私もね、若い・・京都の本山におります時にですね、若い人を色々お世話致しました。1人のうちの私の女の中に「早う結婚せんならん」30になっても33になってもないですよ。そこの親が「なんとか早いとこしてくれ」と頼まれましてですね。気につけております。私は今世話せんことにしてます。世話するでもね、やっぱり結婚式やそういうことあったらね、まあ何遍も行かんならんね。汽車賃払うて何遍も行って、この私に何遍も頭下げて「よろしく頼む」ってね。散々こう苦労して結婚式あげました。やっと結婚できたよ。それで言うことなし。これがね、私はあかんね。いつまででもね、結婚させた男が勤めたとこ行った。そこの大学の先生と一緒に行った。そこの部長と3人でしゃべっとったん。そしたらね私が結婚して仲人してあげた、その若いお寺さんがね、3人がしゃべってるとこへね抹茶茶碗2つ持って来た。お客様と大学の先生やから、それでいいんですよ。でも先生かっかしてですね、部長さんに「先どうぞ、先どうぞ」「先どうぞ」と飲ましたん。わしの分は?忘れてんや思うてたんですよ。話し合った、話が終わりましたですね。「さあ帰ろう」帰ろうとなったらですね、わし腹立ったんですよ。なんでや。「こいつ、わしの誰や思うてんのや」お茶持ってって、わしが当たってないこと知っといて。お茶が一杯もらえんとね、3年もしたことがね、全部腹立つたねになる。これはもう本当に後でない?全部そうやで。わしこないだ京都で入院しとったん。「あんたなにが専門家ですか」「わしは消火器です」「消火器ですか。消火器いうのは、どういうことすんのや」「食べて夜中こなこな熟して腸へ入れ込み、そういう姿を消火器という」食べて大体3時間か4時間くらい大体腸の方へやってまうんですね。なにを食べたかわからないどろどろに溶かして腸へ送るんですよ。これが健康なんです。それ聞いてね、びっくりしました。3時間や4時間でね溶けませんもん。わしは20年もしてやったこと、まだ怒うてる。そしてまだここで怒うてるでしょ。それどこにあるのかわからんけど、又事件があったらパーと出て来てですね、「あいつ、わしがここまでしてやったのに。こんだけしてやったのに茶は辞めろ」茶一杯もらえんだけで。こういので正体暴露するんですよ。仏様の教え聞くということは、仏様の話を聞くことによって、ああ私は「不了浄」。なにがあっても全部「わしがした」と言う。色んなことやったら、やった手で汚れる。名利に汚れるんです。全部汚れてしまう。「そういう私だったな」と言うことがわかってきた。これが皆さん「南無」と言うことです。「南無」と言うとね、南が無いと書いて「南無」と言うことは「ナマス」と言う、インドの言葉で「ナマス」と言う。「私は「不浄了」の心しかなかったな」自分に気がつく。「南無」「阿弥陀」と言うことをですね。そういうはたらき。阿弥陀様というのはどっかにおいでるんじゃないですよ。「南無」なんですよ。「私ああそうだ、自分というのは、はじめて生まれたものだ。ああ、そういうことだと知らなかった。南無」「こんな私にも下がらん頭が気がつかせてもろうた」これは人間の力でない。仏様のおかげやぞ。これを仏というですやろ。「南無」もないのに仏、「阿弥陀」なんかありませんよ。「南無」もないのに阿弥陀様なんかあったらそれお化け。阿弥陀様は、どこにいらっしゃるか。私らがお寺に参ってお話を聞かせてもらうてる。「そうやったな」と気がついたことが「阿弥陀」と言う。仏様のはたらきなんです。わかって頂きましたですか。阿弥陀様というのは何者じゃ。丁度ね、鯉のぼりみたいなもんじゃ。鯉のぼりというのは皆さん、風がないと上がらんでしょ。風があるとバーと鯉のぼりが上がるのじゃな。風なんか見えんのや。見えんけど鯉のぼりがほど遠く見えとんのや、バーと。私あの鯉のぼりの尻尾、あれつめたらもっと上がる思うねん。鯉のぼりの尻尾閉めたら上がらんねん。風が通らなければ、あれは上がらない。おかしいね。「法然上人」という鯉のぼりがあって、この鯉のぼりが大きさが風で飛んで行った、この鯉のぼりも「親鸞」という鯉のぼりがバーと出て上がっていく。その風を受けて登頂の私も上がっていくんですよ。それで阿弥陀様でない。根性の動かすことを変えてしまう。はたらきなんです。私をここまで座らせて下さった、そのはたらきをいいますね。私は60歳のおっさんの別居の話をしておりまして、別居のおっさんの話を聞くことによってですね、「そうや、「今の若い奴はどうもならん」言うとったけど、私はこういう根性やったな」とわかったらですね、どうですか、それから仕事がわかって見えてきた。ああ、あのお婆さんは「あのお婆さんもこの世界に目覚めさせてやりたい」と言う心が起こってきた。これが「願以此功徳 平等施一切 同發菩提心 往生安楽国」という意味ですよ。「ああ終わった」という証拠と違いますわ。「願以此功徳、ああ終わった。お勤めやっと終わった。やれやれ。」そんな違いますわ。「願以此功徳」というのは「さあこれで始めますよ」お婆さん長らく連れ去ってったお婆、愚痴ばかり言うとったお婆、なんとかこのお念仏の教えに遇わしたい。そういう仕事が見えてきたのよ。だからそのお婆さんにも遇ってね「お内仏様にお参りしお前も参りや」なかなか参らへんや。お仏壇でもね「不気味」と言うだけやった。「不気味」言うだけ。わしもそやけど。そんでもね、これでも良い。わしは親父さんが朝お勤めして蝋燭をわざと消さないやと。お爺さんは。参っててね、「お婆さん、はよお参りしてくれ」と。「お婆さん、早よ行って来い。蝋燭つけっ放しやろ」「それもったいない」走って行っちゃう。「蝋燭もったいない」言うて走って行きよる。「行けんでもいい、それでもいい」ようするになんぼ言ってもかまへん。それでお婆さんが消しに行くために、あそこに座っとってもいいから、お婆さん今夜お寺来て参ってお婆さんにこういうことに気がついてもらいたい。自分さえ良かったらいい、そうじゃないでしょ。お婆さんまでこの道を広げて行きたい。「願以此功徳 平等施一切 同發菩提心 往生安楽国」とお勤めが終わる意味はそういう意味でございますよ。5分間ちょっと長くなりましたやん。時計と競争してやってました。ところで申し上げました、よう参っておられましてありがとうございました。「南無阿弥陀仏」と言うと自分が南無阿弥陀仏にならな駄目なの。皆さんね、もう一遍いいますよ、「南無阿弥陀仏」はおまじないでもなんでもないですもん。「南無」。「南無」ですよ。「私の情の下より若いもんに偉そぶっとった。ああそうやった」と気がついたら「阿弥陀」「南無阿弥陀仏」。そうするとね「南無阿弥陀仏」や称えていかねばなりませんけど、私が身体で体験せな。「ああ、これが南無阿弥陀仏やな。これだった」今ここで仏さんに遇うていた。そのことをひとつ、これから皆さんあまり長くないですけども、いや本当。生きてる内に「南無阿弥陀仏。ああ」とね、遇うて頂きたいと思います。これで辞めようか。いいかげんで、すみませんね。ありがとうございました。
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